01 - side B -

冬。
家路を急ぐ人々の群が、電車からどっと吐き出される。その中に紛れた一人の中年男が、駅の出口でふと足を止めた。
(…雨、か)
見上げた黒い空から針のような雨が放射状に降って来ていた。寒い夜だ。

こんな日は、十八年前のあの日を思い出してしまう。
あの日も、こんな風に。
冷たい雨に湿った黒い街が、余計にその色を濃くしていた。

その日、自分は捕食者に怯える溝鼠のように、とある歓楽街の狭い路地を逃げ回っていた。粉塵と油に汚れた壁の隙間に身を置いて、なんとなく顎を触るとざらついた感触が手に残る。追っ手の気配に神経を張り詰め、ろくな飲食も休息も取れなかったこの三日間は、削げた顎に小汚い無精髭を育て上げていた。
当時の自分は真っ当な職に就いていなかった。何々組系暴力団組員と言うのが男の肩書きで、その中で成り上がって行く真っ最中だった。

 面白かった。

 上のため、組織のために死力を尽くし、それが認められた時の充足感。それに伴って上がる自分の重要度。周りからの羨望。何時の間にか舎弟といわれる存在も出来て、少し前の自分と重ねて可愛がっていた。

 そんな日々がぷつりと切れてしまったのが、ほんの数日前のこと。出資法違反で、自分に目をかけてくれていた幹部が警察に捕らえられた。その代理人として、下の間では自分に白羽の矢が立ったのだが、それに見合うには自分は未熟すぎた。突如としてスポットライトを浴びたことを良しとしない連中が、同僚から少し上のクラスまで、いくらでもいたのである。むしろ、異例とも言える速さで組の中の位置を各個たる物にした男は、前々から妬み僻みの的だったのかもしれない。
  盾となってくれていた幹部がいない。
  アイツを消すなら今だと言う風潮が自然と高まり、男は追われる身となった。自分が形勢を立て直すまでは、組から逃げなくてはならない。そうやって始まった逃亡生活の最中、特にこの三日間は今までに無く追い詰められていて、組同士の抗争の中ですら感じなかった感情が男を襲っていた。
  初めて、死ぬのが怖かった。
  目的が無く不良を気取っていた自分に、存在理由をくれた組のためなら死ぬのは怖くなかった。しかし今、たかがやっかみのためだけにこんな所で無駄死にしたくないと強く思う。暗い路地裏の中、男は必死で足掻いていた。

 

 張り詰めた糸というのは、切れ易い物だ。狭い路地の向こうの生物の気配に気づけなかった。角を曲がった所で、衝撃に足が崩れる。
「いったぁ~い。」
  幸いにも、ぶつかったのは組の者ではなく、ただの娼婦だった。耳障りな甘い声が鼻につく。倒れた身体を起こすのも面倒なほど疲労していた男は、頭痛がする頭でこの売女めと罵倒していた。
「ちょっとアンタ!どこ見て歩いてんのよ。謝りなさいよ!」
  しかし、衝突の衝撃に乱れた髪の毛を掻き揚げた女が見せた瞳は、怒りを孕んで小さな焔をキラキラと宿していた。その様は意外にも美しくて。そのせいだろうか。男は、そのまま意識を手放してしまった。
  男が意識を取り戻したのは、人工的な匂いに囲まれた狭い部屋の中だった。化粧の匂い――女の香り。
「気が付いた?」
そんな中に温かい手作りの香りが漂ってそちらへと顔を向けると、先ほどの女が戸口に立っていた。面倒なまでの派手なネイルアートが施された手には、それと不釣合いな柔らかい湯気が立つ丼を持っている。
「お腹すいてるでしょ?食べなさいよ。」
男が無言で受け取るそぶりを見せると、女はそれに応じて盆にのった粥を手渡した。一匙口に運ぶと、口当たりの良い味が胃に染みる。
「貴方、名前はなんていうの?」
「……サトウだ。」
現在、日本で一番多い苗字は佐藤だったか鈴木だったか。偽名には都合が良い名前だ。暫しの逡巡の後、男の無表情な唇が動く。女が、苦笑交じりの笑みを見せた。
「…そう、それじゃサトウさん。私の料理は気に入った?」
話が変わる。詮索をしないその態度に、賢い女だと思った。
「あぁ。」
問いには素直に頷いた。温かい料理は本心からありがたかったのだ。
「じゃ、貴方が私の料理を食べたいと思うだけ、ここにいて。私、貴方を気に入ったの。」
そう言って笑った女の瞳がくしゃりと細まり、酷く無邪気な表情を作る。
  それを見て、賢いけれど馬鹿な女だと思った。

 思わず外すように飛ばしてしまった視線の向こうで、そう言うものに無頓着な男でも良く知っている白い子猫のキャラクターのぬいぐるみが、無表情を決め込んで、それでもどこか居心地良さそうに女のドレッサーに居座っていた。
  後に男は、この自分とは似ても似つかないぬいぐるみを同類のように思うようになる。
 

 それから男は女と穏やかな日々を過ごす。表立っては出歩けないヒモのような生活だったけれど、それでも二人で暖かな食卓を囲んだ。ベランダから、沈む太陽に赤く焼かれる街を見た。月明かりも無い星だけの夜、コンビニに出かけた。話すことが途切れた、今日と明日の境目にはセックスをした。

 男は女の料理が好きだった。白い肌が夕焼けを受けて橙に映えるのが好きだった。星だけの薄明りの中、それでも笑っていると解る頬の輪郭が好きだった。騒々しいハイビスカスの咲いたシーツに散った髪が、自分の動きにあわせて揺れるのが好きだった。

「ねーサトウ。見て見て、花火!」
「花火?」
この冬の最中ずいぶん時期外れだと思って、女が指差す窓の外を見た。
外気温を宿して冷えた窓に近寄ってよく目を凝らすと、ビルの合間から様々な色の光が煌いては消えるのがかすかに確認できる。確かあの方向には有名アミューズメントパークがあったはずだ。何かの記念かと思いを巡らせていると、女が隣で「クリスマスだからね」と言った。よく見れば街もそれらしくライトアップされているのに、そんなことすっかり失念していた。ほんの僅か、隣の女に対して申し訳なく思う気持ちが湧いてくる夜空に咲いた花は、近くで見ればとても大きい物だろうが、ここから見ると僅か十円玉サイズだった。苦笑を孕んだ口角が自然と上がる。
「見に行きたいな。」
窓の外の景色から外した視線を僅かに下げてやると、女が強請るようにこちらを見上げていた。
「行かねぇよ。」
「良いじゃん行こうよ。」
「行けねぇよ。」
軽く言う女に、一文字だけ変えて返事をした。行かない、ではなくて、行けない。 男がどういう身分なのか、打ち明けたわけではなかったが、女のほうでもただ漠然と、大手を振って日の下を歩けるわけではないことを悟っていたようだった。だから、こんな風な言い回しをすると大抵素直に引き下がる女だった。今までは。
「良いじゃん、行こうよ。」
しかし今日は引き下がらなかった。そして笑いながら、こう続けたのだった。
「何か有ったら、私も一緒に死んであげるからさー。」
そう言って、男の二の腕にその頭を預けた。何時の間にか、女の顔に浮かべられた笑いは収められていた。

 男はやや間を取って鼻から溜息をつくと、視線を窓の外へと戻す。
預けられた頭の後頭部に乱暴に逆の手の指を絡ませて、押し付けるように固定した。今の自分の表情を見て欲しくなかった。
「余計、行けねぇよ。」

遠くの空に散るはずの花火の音が、やけにはっきりと耳に残った。

 

 「よぉ。」
  そう呼び止められたのは、その次の日のことだった。聞き覚えのある声に、全身が凍りつく。ゆっくりと振り返ると、ニヤついた顔の同僚が立っていた。名を岩城と言う。
「まぁ、今まで良く隠れてた方だと思うぜ。」
  近場の喫茶店に場所を移し、岩城と対峙する。すぐに連れ去られなかっただけ、状況は良くなったと言うことなのだろうか。張り付く喉仏で音を立てながら、男は水を口に運んだ。
「大方女にでもかくまってもらってたんだろ?得だな、色男は。」
岩城はケタケタと声を上げて煙草をふかす。脂に汚れた歯茎が覗いて、卑下た雰囲気が一気に増した。
「用件は、何だ。」
それを睨みつけながら話す。
「そんな顔するもんじゃねーって。俺はお前を迎えに来たんだぜ?」
「迎え…?」
「あぁ、お前が逃げた直後だったら、まだ頭取がしょっぴかれてすぐだ。混乱に乗じて殺すことも出来たがな、今となっちゃあそれも出来ねぇ。あんたをヨイショする勢力がだいぶ固まってきたからな。まぁ俺としちゃあ飛ぶ鳥を落とす勢いのお前に戻ってこられるのは癪だが、組の為ならしょうがねぇ…。だいたい、可愛い可愛いあんたがいなくなってたら、頭取が戻ってきた時に何言われるか解ったもんじゃねぇし。」
戻れる。あの、血湧き肉踊るあの日常に。
「あぁ、だけどな、今お前が世話になってる奴とは縁を切っとけよ。」
けれどそれは、今の日常を捨てると言うことだった。男は自分の膝を握る。
「……。」
岩城の言うことは、以前の自分なら即同意していたことだ。下っ端でもない、重役でもない。そんな微妙な位置にいる自分のやくざ家業に特定の女は邪魔だし、何より自分が必要としていなかった。しかし今は、あの居心地の良い日々を捨てる理由がイマイチわからなくなっていた。
「ははは、だんまりか。」
岩城が灰の長くなった煙草の灰を指で弾き落とした。
「その様子じゃずいぶんその女に入れ込んでるみたいだが、それはお前のアキレス腱だ。てめぇ、その女盾に取られて揺すられたら、最後まで組のために動くことが出来るか?出来ねぇだろう。てめぇの組内ですら生かす殺すの是非がコロコロ変わる微妙な位置にいるんだ。弱み作るには、お前はまだ未熟すぎる。女作るのはもっと上り詰めてからにしろ。」
それまで諭すような口調だった岩城が、ふいに目の奥に嫌な光を宿らせた。
「…てめぇが自分で切れねぇってんなら、俺が殺してやるぜ?」

 その言葉を聞いた瞬間、考えるより先に足が動いて、二人を隔てているテーブルの足を蹴り飛ばしていた。グラスが倒れてテーブルの表面にじわりと水が広がる。
「おっと…、お前熱いねぇ。」
岩城がこれ見よがしに肩を竦めて、紳士ぶってグラスを直す。男は何がおかしいんだと、そのニヤ付いた顔を更に激しく睨めつけた。
「まぁ今のは極論だがな、つまりそう言うことなんだよ。組はお前に来て下さいってお願いしてんじゃねぇ。来いって命令してんだ。その障壁になるもんが有るならそれをどうするかは、お前も良く知ってるはずだな?」
指の先が白くなるほど自分の膝を強く握る。言い返せなかった。その、障壁を消すと言う仕事は、自分が楽しんでやってきたことだったから。
  憤った感情が臨界点いっぱいになって、ふつふつと音を立てていた。何時の間にか作っていた拳にじんわりと汗が滲んでいるのが解る。そんな様子を見て、岩城が楽しげに笑った。
「それになぁ…。」
もったいぶった深呼吸をする。吐き出された紫煙が拡散する間、たっぷり時間をとっていた。まるで、男の中の感情があるはっきりとしたものになるのを待つかのように。

「お前今、俺のこと殺したいだろ?」

言われて愕然とした。見開いた瞳の向こうで岩城が勝ち誇ったように笑っている。
「そら見ろ。似合わねぇよ、お前には平穏な日常なんてな。俺たちの匂いが染み付いてる。…ま、身辺整理がついたら戻って来い。」
岩城が席を立ち、気安く男の肩を叩いた。そして、暗黙のうちに奢ってやるとでも言うようにさっさと伝票を持って立ち上がる。仲間内にするようなその態度で、同じ穴の狢と言われた気がした。

 

 

 「サトウ!」

後にしたアパートの中から、女が転がるようにして出て来た。裸足のままで、この寒空の下雨に打たれるのも気にしていない。一言、「出て行く」としか言わなかったから当たり前かもしれなかった。
「出て行くって…なんで…。」
「……すまなかった。」
「謝って欲しいんじゃないよ!」
雨に鼻声が響く。アスファルトに浮く雨水を裸足で跳ねて、女が駆け寄ってきた。
華奢な拳で、縋るように胸を叩かれる。
「行かないでよ…っ!」
絞り出すような声で俯いた女の項に、パタパタと雨が落ちる。湿った髪が張り付いていた。
「子供が…!」
胸に押し付けられた顔が上がる。出会ったあの日に魅せられた瞳が泣いていた。涙自体は雨に紛れてしまうのに、なぜかそれが痛いほど解って堪らなかった。
「子供がいるんだよ…!」
眩暈がした。一瞬、馬鹿みたいに、絵に描いたような幸せを思い浮かべる。この女と、子供と、そして自分が一緒に笑う。この冷たい夜には、あまりにも眩しい風景だった。

 男は、小さなバッグにまとめた手荷物を探った。着のみ着のままの逃亡生活で持っていた僅かな私物。その中から、カードとセットになっている通帳を取り出して女に握らせる。真っ当な仕事でなかったぶん、貯蓄だけはかなりの金額になっていた。
「堕ろせ。」
女の体が、雷に打たれたように小さく跳ねた。
「これで堕胎しろ。残りは好きなように使っていい。…俺のことは、忘れてくれ」

自分に縋っていた女の手から、力が抜けるのがわかった。二、三度鼻を啜る音がする。その間が恐ろしく長かった。
「…そうだよね…。サトウにしてみたら、私なんてただの食い扶持だもんね。…最後まで、本名だって教えてくれなかった。」
知らずのうちに、眉を顰めていた。自分を卑下して欲しくなかった。悪いのは自分の方だ、お前じゃない。そんなお決まりの台詞を吐きそうになったが、寸でのところで思いとどまる。何を言っても、言い訳にしかならないだろう。
「それでも、私は…サトウが傍にいてくれたら嬉しかったんだよ。」
女が、涙声の中に笑いを作るが、すぐに崩れて見えなくなった。

 雨足が強くなる。辺りの音が雨だけがクリアに響いていた。永遠に続くように思われたその時間の中、やがて女が毅然とした声で通帳をこちらに見せ付けた。
「これ、返さないからね。私の好きなように使っていいんでしょ?」
男は頷いて見せた。そしてそのまま女に背を向ける。
  最後に見た女の瞳は、妙に潔くあの時のように怒りを宿らせていたようだった。それでいいと思う。恨んで、憎んで、忘れてくれれば良い。

 

「さとー!!」
わりと長い間トリップしていたのだろうか。気がつくと、視線の先には良く見知った青年達が、仲良く並んで雨の中に傘を差していた。

 男は佐藤と言う名前だった。本名だ。通帳の名義もそうなっていたから、女はそれが本名だと気づいただろうか。それとも、闇の社会ではこんな物を偽造するのは簡単なことだと一笑に伏しているのだろうか。どちらでも構わないが、女の気が少しでも安らかならと思う。

「お前ボーっとしてるとマジ普通のオヤジなのな、ぜんぜん違和感ねーよ」
そう言って傘を差し出してくる、金髪の美丈夫。
「それは言いすぎだろ…」
それを咎める様な口調の、若いくせにやたら落ち着いた男。
「佐藤、大丈夫? どっか悪いのか?」
そう言って自分を見上げてくる、可愛い顔をした青年。
もし自分の子が生まれて成長していたら、こんな風な日常のひとコマを、あの女と、そして子供と過ごせたのだろうか。……馬鹿馬鹿しい。当の昔に捨てた物に懐古の念を感じるなんて、非生産的にも程がある。
「…おーい?佐藤?」
再び意識を飛ばしていた自分に、青年達が怪訝そうな視線を向けていた。
「何でもない。…ただ、少し過去の感傷に浸ってただけだ。」
そう言ってやると、三人の内の金髪が鼻で笑った。
「これだからジジィはしょーがねぇな。ボケんじゃねーの?」
「おい、言い過ぎだって…」
とは、若年寄談。
「そんなに真剣に言われたら返って救いようがないよ」
すかさず、幼顔の青年が顔に似合わぬ突込みを入れる。にわかに賑やかになった現場に、佐藤は自然と穏やかな笑みを零した。
いつの間にか、雨は気にならなくなっていた。

あれからもう二十年近い月日が経とうとしている。